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橋本努の音楽エッセイ 第14回「革命的なリビドーを解き放つ音楽」

雑誌Actio 20108月号、22

 


 革命を夢みて、音楽をきく。いやいや、革命ビジョンを理論化するために、音楽に没入する。そんな野望ならぬ陰謀をもって音楽に触れていると、夜の時間は、ミューズの女神とともに更けていく。

 いったい、音楽と革命とは、どんな関係にあるのだろう。音楽は、失敗した革命の代償物なのか、それとも迫真の政治革命を鼓舞しているのか。詩人たちを、共和国から追放すべきだと言ったのはプラトンであったが、そのプラトンは、詩人よりも音楽家を下位の存在とみなしていた。アリストテレスもまた『詩学』のなかで、音楽芸術を、最下位に位置づけている。古代ギリシアの哲学者たちにとって、どうやら音楽は「美徳(=卓越)」にかなうところが少なかったようだ。古代ギリシア哲学に反旗を翻すとすれば、私たちはまずもって、音楽に導かれるべきであろう。

 むろん現代の社会では、ある種の音楽は文化的な権威となっている。けれども音楽のなかにも、制度化されていないものがあって、それらはときどき革命的なリビドーを携えて、世界に到来する。ジャズ界にそんな革命をもたらしたのは、なんといってもオーネット・コールマンであった。伝説の名盤となったストックホルムでのライブ二枚組(the ornette coleman trio, at the “golden circle” Stockholm vol.1-2.)は、いったいどんな構造で成り立っているのか、喧々諤々の論争を巻き起こしたほどだ。この偉大な独創的作品は、いまや前衛的なジャズマンたちのバイブルとなり、オーネットに敬意を表すカバー演奏も、次々と生まれている。最近では、David Liebmanの作品Turnaround: The Music of Ornette Coleman がすばらしい。革命の気魂が現代によみがえるようだ。(ただしこのCDはたった二ヶ月あまりで限定販売終了という。あまりにもひどい限定の仕方ではないか!

 音楽がもつそんな革命の精神を、ポール・ギルロイは『ブラック・アトランティック』(月曜社)のなかで、うまく言い当てた。黒人ミュージシャンたちは、文化社会を制度化する人(立法者)や、その制度に寄生しながら取り巻く人間(解釈者)とは別の、異なる役割を引き受けてきた。ドラムのリズムは、抗争的で対抗的な感性を刺激し、精神を鼓舞する。社会的な抑圧からのがれて、自由になりたいという、そんな欲求を政治的に喚起してくれるのは、他ならぬ黒人ミュージシャンであった、という。

 私たちの社会は、合理的な体系として確立すればするほど、不活性になってしまう。正統な社会は、人びとの行為を動機づけない。正統であれば、なにも抵抗する必要はないからである。そんな不活性の感覚から覚醒してくれるのは、既存の正義に揺さぶりをかけるような、解放の感受性であろう。オーネットのジャズ革命はまさに、そんな力をもっていた。解放といっても、心地よいものではない。むしろ苦悩に満ちた創造を追体験するようなものだ。

 いま求められているのは、そんな創造の苦悩ではないか。創造的で解放的なモチベーションを、政治の実践へと導く。ジャズ音楽は、そのための哲学的なリソースをたくさん与えてくれる。